雨が降ってきた。
せっかく咲いている金木犀も、この雨で散ってしまうだろう。
秋と冬の間の、甘い匂い。
魔法のように、空気まで甘くなっていた。
「……でさ、駅の向こうにいい店があったんだよ」
「へえ」
「ビールの泡が、もう神で。天国の柔らかさ……」
二日前に一緒に飲んだ本郷さんが、今夜もまた、俺の目の前ですっかり酔っている。
たまたま居合わせて、同じテーブルについた。
本郷さんといると楽しくて、さりげなく、飲ませすぎてしまったかもしれない。
そうわかっていても、まだススメてしまう。
「でも今夜は、熱燗が美味しい。すっかり秋だよね」
「おっ、力石、ゴキゲンだな。結構、結構」
「本郷さんのゴキゲンには、かなわないけど」
「そうか? おお……俺にはかなわないって?」
最近、少しわかったことがある。
本郷さんは、俺がほめると、ものすごくいい顔で笑うのだ。
これが、なかなか可愛い表情で、つい、見とれてしまう。
冗談でもなんでもなく、俺は、嬉しそうな本郷さんを見ているだけで、酒が飲める。
もちろん、そんな態度は、絶対、表には出さないけれど。
「この雨で、金木犀の花も終わる、か」
「おお。最近は、匂いも薄くなってきてたしな」
徳利を向けると、空いたお猪口を持つ本郷さんの手が、俺の前にきた。
ゆっくり注ぎながら、その手を観察する。
意外ときれいに切りそろえられた爪と、長い指。
どういう仕事をしているんだろう。
気にはなるけれど、聞くほど野暮でもない。
日中がどうであろうと、こうやって一緒に飲む本郷さんに変わりはないからだ。
「それでもまあ、まだ匂いは残ってる……あ、力石は、金木犀が嫌いだったっけ」
「え? 俺、そんなこと、言った?」
「言っただろ」
「……いつ?」
「この間、飲んだ時」
思い返しても、全く記憶になかった。
本郷さんが覚えていて、俺が忘れるなんて、絶対にありえない。
きっと別の話を、酔った本郷さんが勘違いしただけだ。
「俺、嫌いじゃないよ」
「じゃあ、好き?」
「ああ、好き……」
「そうか。力石は、好きか」
頷いてから、本郷さんの顔を見つめてしまった。
変な誤解を招くようなタイミングだった。
思わず、恥ずかしくなって、視線を外してしまう。
今の嫌いじゃないも、好きも、金木犀に対してだ。
深い意味は全くない。
多分。
「金木犀って、そんなに、特別な花でもないのに」
そう言いながら、俺の中で、金木犀は特別な存在になりかけている。
本郷さんが好きだと言った……いや、言ってない、けど。
今の会話は忘れがたい。
「オレンジ色で、可愛いじゃないか」
「ふうん。本郷さんって、可愛いのが好きなんだ」
「いや、そうじゃないけど」
眉間にしわを寄せた本郷さんが、小さく首を振る。
一瞬だけ、大人っぽく見えた。
「でかい木をバサバサ揺すって、足元をオレンジ色でいっぱいにしてみたいだけ」
「なんだよ、それ!」
想像して、吹き出してしまった。
大人でもなんでもない。
コミカルな本郷さんの動きだ。
トレンチコートの色と、オレンジ色の小さな花は、不思議とよく似合う。
「そういうのって、せっかく咲いてる花がかわいそうだろ」
「……むむ……それじゃ、ごめんなさい」
ダメだ。
なんとも言えない表情だ。
可愛いって、真正面から言いそうになる。
燗酒じゃ、間に合わない。
「すいません、冷酒、お願いします」
思わず、酒の力に頼ってしまった。
落ち着くために。
「ずるいぞ、力石。俺も……いや、俺は、あの生原酒の方で」
「……いいね、本郷さん」
いつだって、本郷さんは、まっすぐに手をあげて注文する。
この伸びた手が、真面目な性格を表しているようだ。
指の先まで見つめて、納得した。
「……ごめん、か。優しいな、本郷さんは」
「おい、おまえに言ったわけじゃないぞ。金木犀にだぞ」
「はいはい」
冷酒が届いて、また、本郷さんと乾杯する。
数え切れないくらい、コップの重なる音を聞いた。
誰と合わせても、音は同じだろうけど、本郷さん以外と乾杯する気はあまりない。
酒がきたら、すぐに飲む。
そこに挟むのは、本郷さんだけでいい。
「そうだ、本郷さん。俺の名前って知ってる?」
「へ? おまえの、名前?」
さりげなく聞いてみた。
苗字は名乗ったけれど、名前までは言ってない。
本郷さんが知ってるはずはないのだ。
それなのに、聞く俺は、酔っぱらい相手に意地悪だと思う。
「知ってるよ、もちろん」
「え? ほんとに?」
驚いて、声が大きくなる。
もしかして、本郷さんも、俺に興味を持っていてくれたんだろうか。
「力石は……タロウ、だ」
「? 違う。全然、違う」
「じゃあ、セブン?」
「……なんの話? それ」
あくまでも、知らないとは言いたくないらしい。
悩んでいる本郷さんが、本格的に唸り出した。
途中から、面白い事を言ってやろうと考えているのが、その顔から伝わってきた。
面白いのは本郷さんの方だ。
「本郷さん、ごめん。もういいから。冷酒飲んでよ」
「おお……」
「……俺、馨っていうんだ」
「どんな漢字?」
「……ん、今言っても、本郷さん、覚えてられないと思う」
思い出すと、笑ってしまいそうになる。
この間会った時、やっぱり金木犀の話になって、本郷さんは、
(金木犀が香る)
と、何度も言ったのだ。
花が香るのと、俺の名前は、何の関係もない。
けれど、音の響きは同じだ。
本郷さんから名前を呼ばれたような錯覚で、心が躍った。
「今度、説明するよ」
「そうかい」
本郷さんの真似をするわけではないけれど、ぐっと酒を飲む。
ひやりと冷たく、喉を伝わる酒は、気持ちがいい。
このまま、俺も、酔ってしまおうか。
「……かおる、か」
「え?」
不意打ちの本郷さんの声は、とてもまともに聞こえた。
もしかして、酔っているようにみせかけて、全く酔ってなかったんだろうか。
「おまえの名前って、いい響きだよな」
「……前も言った、本郷さん」
「へ? 俺、今初めて名前を知ったんだけど……」
「あ、そうか……あれは金木犀の花のことだったから……違った」
けれど、やっぱり俺の名前は褒められた。
踊り出しそうになる気持ちを堪えるのは大変だ。
「俺は好きだな」
息が止まった。
本郷さん、今、なんて言った?
「昔好きだった映画、思い出すよ」
映画か。
細かく聞いて見たいけれど、きっと俺の知らない映画だろう。
「あ、ああ。ありがと……俺も、気にいってるんだ」
かろうじて、それだけ言えた。
本郷さんの赤い顔は、酒の酔いからなのか、照れているのか、ちっともわからなかった。