博多からの帰りは、もう何度目になるだろう。
大した事のない用を済ませて、新幹線に乗った。
いつも、弁当を食べて酒を飲んで、意外と長い時間を楽しむのだけれど、最近は何かひとつ物足りない。
勿論、理由は分かっている。
本郷さんがいないからだ。
飲み屋で出会っただけのオジサンと、一緒に新幹線に乗って、お揃いの弁当を食べたのは、そんなに昔の話ではない。
何の話がきっかけだったのか、言い出した本郷さんですら覚えてないのだ。
俺だって、カケラも覚えてない。
ただ、その流れが自然で、ごく普通に出かける事になったのは事実だ。
似ているけれど、決してデートではない。
そこは何度も確認して、最終的には吹き出すほどの笑いに変わったけれど。
多分、あれはデートだったのだ。
今なら、直球でデートだと言い切ってやる。
そして本郷さんの慌てっぷりをじっくりと堪能させてもらう。
俺と本郷さんは、ある意味、そんな事を言って笑えるような、くだけた関係になっていた。
あのタイミングで、旅行に行ったのは、まさに運命の出会いに拍車をかけたような物だったのだ。
「……俺が帰り着く頃には、本郷さん、すっかり酔っ払ってるだろうな……」
今夜は、トレンチコートを見る事すら出来ない。
東京駅までは、まだ時間がかかる。
俺が新幹線の中で、こうやって目を閉じている間に、本郷さんは美味い酒と肴で楽しんでいるだろう。
本郷さんの何が気に入ったかって、いつ会っても一人で楽しそうにしている所だった。
近寄りがたい雰囲気はあるけれど、一度触れるとあの笑顔がたまらない。
本郷さん自身、物知りだし、話し方もうまい。
声も聞いていて気持ちがいい。
全部に引き込まれてしまう。
そして何より、本郷さんの選ぶ店がいい。
俺が気に入っている店に、必ず本郷さんは顔を出している。
どこで見つけてくるのだろう。
一度聞いたけれど、うっかり忘れてしまった。
「……会いたいな……」
博多では、時間を無理に作って、本郷さんのために、明太子を買ってみた。
手ぶらでは絶対に淋しい。
誰も座らない隣の席に置きっぱなしにして、本郷さんを思い出しながら、時々眺める。
そういえば、本郷さんが明太子を食べている姿は見た事がない。
もしかして嫌いだったか。
嫌いなら、好きになれるように、俺が食べ方を教えてもいい。
本郷さんに教えるなんて、なかなか楽しい状況だ。
ポケットに手を突っ込んで、ふと気がついた。
指先に触れる、鍵。
「そうだ。東京に着いたら、本郷さんちに寄ってみよう……」
特別な付き合いをするようになっても、お互い、不思議な距離があった。
俺は、酔った本郷さんを送り届けた事があるから、その部屋の間取りも知っている。
ゴミ箱の位置だって覚えた。
けれど、本郷さんは、俺の住んでいる所を知らない。
興味がないのか、聞いてくる事すらしないのだ。
(本郷さん、うちにも来る?)
(……俺んちが、こんなだから……力石の家はいい)
(こんなって……? 俺、本郷さんちは好きだよ。すごく落ち着くし)
(そう言ってくれると嬉しいけどな。なかなか慣れない……)
言いたい事はわかる。
一緒にいるのが俺だとしても、人の家は落ち着かないと、本郷さんは言う。
確かに、以前は俺も、似た事を感じていた。
一人でいるのが長かったからだと、笑いながら言う本郷さんの、何とも淋しい響きがたまらない。
俺でも駄目なんだろうかと。
(本郷さん……)
(えっ、おい、何を……こらっ、力石……おい!)
それがどう考えても、誘い文句にしか聞こえなくて、思い切り抱いてしまった。
色々終わった後で、軽く叱られてたのは、俺が悪かった事にしてもいい。
それからしばらくして、唐突に本郷さんから、部屋の鍵をもらった。
叱られて、それでも何度か繰り返した関係の行き着く先が、この鍵だった。
元々、そんなに物を持たない俺の、大事な宝物がひとつ増えた。
「何の連絡もなく俺が行ったら、本郷さん、怒るかな。焦るかな……」
想像するのが楽しい。
黙っていれば、姿勢の正しい大人の男で、格好いい部類にも入るというのに、本郷さんは動きがおかしい。
ひとり言も多いし、時々ユニークな言葉も使う。
俺の周りには、いなかった存在だ。
だから珍しくて気になるのかとも思ったけれど、そんな単純な理由ではなかった。
本郷さんは、俺の特別だ。
そう思うだけでもいい。
触れるともっといい。
思い出すだけで、どんどん会いたくなってくる。
念を込めれば込めるだけ、新幹線が早く東京に着けばいいのにと思った。
新幹線は定刻に着いた。
時間は、遅い。
気まぐれで顔を出して、許される時間をとっくに過ぎている。
けれど、俺は鍵を持っている。
勝手に手にした物ではなく、本人から直接もらった物だ。
いつだって、顔を出してもいいという証だと信じて、本郷さんの家に向かう路線を選ぶ。
我儘な解釈はどんどん広がって行く。
もう、本郷さんの家に寄る以外、頭の中にはなかった。
もらった鍵を初めて使う夜という状況は、この先二度とない。
本郷さんと出会ってから、俺はこういった初めてを、何度繰り返しただろう。
してない経験は、あまりないと思っていたけれど、それはとんでもない思い違いだったと、本郷さんは俺に教えてくれた。
やはり、本郷さんは、俺にとって特別な存在だ。
ほとんど人のいない夜の道を歩きながら、本郷さんの家を目指す。
多分、この景色を、普段から本郷さんは見続けているのだ。
そう思うと、あちこちの建物も、塀も、ただのアスファルトまで、何もかもが楽しく思えて来る。
「きっと、ここらで一度はつまづいてるだろうな……」
なんて、おぼつかない足取りの酔っ払いを想像すると、笑いが止まらなくなりそうだ。
そういえば、酔った本郷さんに絡まれたのは、一度だけだ。
どこかで会った事だけは覚えていて、まだ、話もした事がなかった頃。
俺からではなく、本郷さんから話しかけてきた。
「……あれって、ナンパだったのかな……」
思わず呟いて、その言葉の破壊力に、一人で笑いがもれてしまう。
出会いのきっかけは、本郷さんからだった。
「やっぱり本郷さんは、すごい人だな……」
あの絡みがなければ、出会いはもう少し遅かったかもしれない。
そして、もしかしたら、俺がこんな風に鍵を貰う方向にはいかなかったかもしれないのだ。
「あ、いた……」
電気のついている二階の角が、本郷さんの部屋だ。
律儀に洗濯物が干してある。
(力石よ。洗濯物を干す時は、靴下なんかを外にして、パンツは中。なるべく見えないようにするんだぞ)
いつか、酔った本郷さんを送った夜、そんな事を教えられた。
一瞬、何を言ってるのかわからずに、言葉に詰まった俺を、本郷さんは誤解した。
(おいおい、知らなかったのか)
(……それって、若い女性の一人暮らしの知恵じゃないのか?)
(へ? だって、防犯上……)
(まあ、男の下着を盗む泥棒もいるかもしれんからな)
(え? あれ? えっ、泥棒って……そんな意味、あったの?)
見る間に、本郷さんの顔が真っ赤になっていった。
(あのさ、別に下着を見えないように干すのは、いい気遣いだと思うよ)
(……オジサンの下着なんざ、汚いだけだもんな……)
(そうじゃなくて。俺は、そういう本郷さんの常識、見習いたい)
(……常識……?)
(だって、下着って、見せる物じゃないだろ。そこ、すごくいいよ)
(そ、そうかい?)
本郷さんは、機嫌を取り戻し、俺は、見習う事はなかったけれど。
「……ほんと、本郷さんっておかしいな……」
思い出すだけで、笑いがこみ上げて来る話なら、いくらでもある。
酔った時。酔ってない時。
知らぬ間に、俺の中は本郷さんの記憶で一杯になっている。
本当に、こんな人は初めてだ。
そっと足音を忍ばせて、階段をゆっくりと上がる。
何度か本郷さんについて、一緒に上がった事はあるけれど、こんな風に一人で訪れた事はない。
絡まない足音の単純さに、改めて、二人という事を考える。
本郷さんと歩くと、足音もいいのだ。
もうずっと、本郷さんが開けて、閉める扉。
鍵穴に差し込むとは、いやらしい状況だと思いながら、軽く回して、やはり赤面してしまう。
俺は、こんな事を考える人間だったか。
少し本郷さんに近づいた気がした。
「……あれ?」
固いドアノブを回して、今、鍵をかけてしまった事に気がついた。
開きっぱなしだったという事なのか。
「不用心だな、本郷さんは……」
改めて、鍵を回した。
今度はきちんとドアが開く。
「お邪魔します……本郷さん、いるかい?」
声を潜めて言う意味はあまりないけれど、そっと身体を滑り込ませて、部屋の様子を伺う。
異様なくらい、静かだった。
電気はついているけれど、テレビの音すらしない。
もしかして、まだ帰っていないのだろうか。
「本郷……さ……」
靴を脱いであがろうとして、そこにズボンが落ちているのが見えた。
その隣に、靴下。
「……え?」
トレンチコートが何かの巣のように丸めて置かれている。
上着、ワイシャツも、脱皮した皮のようだ。
「本郷、さん……?」
どんな様子で服を脱いで行ったのか、本郷さんが分からない。
あまりにも乱雑に散らばっていた。
一瞬、恐ろしい想像が頭をよぎる。
「本郷さん……あっ!」
慌てて居間を覗いて、気が遠くなるかと思った。
パンツ一枚の本郷さんが、うつ伏せになって倒れていたのだ。
「本郷さん、おい、本郷さん?」
俺の声に、全く反応しない身体を抱きかかえる。
本郷さんは、息をしてないかのようだ。
「本郷さん!」
部屋の中も、何やら散らかっていて、俺の知っている様子と違っている。
まさか、強盗でも入ったんじゃないだろうか。
頭が真っ白になった。
「本郷さん、本郷さんって」
「……ん……酔って、ぬ……」
「本郷さん?」
かすれた声が聞こえた。
よかった、死んでない。
「……本郷さん……」
無意識に、その身体を抱きしめていた。
「……んん……トイレ……おしっ、こ……」
「ああ、起きられる?」
「おお……大丈夫……」
起き上がろうとした本郷さんが、俺の腕を掴んだ。
遠慮のない力が少し痛い。
けれど、嬉しい痛みだ。
本郷さんは生きている。
フラフラと立ち上がった本郷さんは、そのままトイレに吸い込まれた。
その後を気にするほど、野暮な俺ではない。
音に気をつけながら、そっとテレビをつけて、流れた番組で時間を確認する。
今夜も酔いすぎて、帰ってきたのだろう。
強盗に入られたのかと思った部屋は、あの服の脱ぎっぷりから、自分で荒らしてしまったのかもしれない。
それならよかった。
もっと恐ろしい想像までしていたのだ。
「力石よ、こんばんは」
「……こんばんは……」
トイレから、本郷さんが戻って来た。
おかしな挨拶だけど、間違ってはない。
「何笑うんだよ」
「いや、本郷さんの声を聞いて、帰ってきたと思ってな……」
「どこか行ってた……?」
「ああ。博多」
ふらつきながらも本郷さんは、最高潮の酔いから少し戻ってきたようだった。
顔色も悪くない。
パンツ一枚の姿も、俺の中で、そう違和感はなくなっていた。
「いいなあ、屋台のラーメン食べたい」
「美味しかったよ」
「……むむっ、そりゃ、美味いだろうよ……博多だぞ?」
あぐらをかいて座り込む。
俺も、さりげなく近づいて、その隣に腰を下ろした。
本郷さんが触れそうなほど、近くにいる。
こんな事が安心になる。
「で? 今日はどうしたんだ?」
「……本郷さんの顔を見たくて」
「おお、大歓迎だ」
夜遅く、突然侵入してきた不審な俺を、本郷さんは笑顔で迎えてくれた。
酔っ払っていて、今の状態自体をよく覚えていないだろうけど、この笑顔はすごく嬉しい。
「なあ力石。俺、今夜、美味しかったんだけどさ、ちょっと物足りなくて、飲み過ぎちゃった」
もう少し、近づいてみる。
酒は匂う。
そして、少ししか離れてなかったのに、本郷さんのかすかな体臭も懐かしい。
別にトイレで吐いてきた様子はなかった。
「美味しいのに、物足りないのか?」
「だって、力石がいなかったからな」
酔った本郷さんは、とにかく素直だ。
勝手に色々話してくれる事もある。
この間は、キャッシュカードの暗証番号まで聞かせてくれた。
後でそれは、全然違う数字の羅列だった事がわかったけれど、あれは焦った。
本郷さんと一緒に酔う度、どんどん距離が縮まって行くのがわかる。
それが楽しくて、嬉しい。
俺の中にある、色んな感情を引き出してくれる。
本郷さんだけだ。
「あ、そうだ。明太子、本郷さんのお土産に買ってきたよ」
「おお、すまん。 そいつはビールに合うだろうな」
「これ、軽く炙ったのが、すごく美味いんだ」
「む、むむ……」
ふと目を下ろした先に見える、本郷さんのパンツは新しい。
「……本郷さん、そのパンツ……」
「なんだ? 明太子じゃないぞ」
「いや、新しいと思って。おろしたて?」
「そう。俺、新しいパンツ、大好きでさ」
「へえ……あ、明太子って、何の話だ……?」
パンツの中の明太子。
直接的すぎて、逆に興奮する。
思わず、本気で抱き締めようかと思った。
今なら何の力もいらない。
そっと手を伸ばすだけで、本郷さんを手に入れる事が出来そうだ。
「なあ、力石よ。軽く炙るって、どのくらいが美味いんだろうか」
「ん? 明太子?」
「そういえばお前、押上の食堂で食べてたろ」
「よく覚えてるなあ」
「……あっ、いや、別にずっと見てた訳じゃないけどな、ふと思い出しただけ」
俺だけじゃない。
本郷さんだって、ちゃんと俺を追ってくれている。
「いいよ。朝になったらご馳走する」
そっと立ち上がって、勝手に押入れから布団を出した。
「力石?」
「本郷さん、きちんと眠ろう。そのままじゃ風邪ひくよ」
「あ、そうか……」
素直に頷かれては、手も足も出ない。
多分俺は、本気で本郷さんに惚れている。
「今夜……泊まって行くけど、いい?」
「おお。せっかくだ。一緒に寝よう」
色気も素っ気もない誘い文句だ。
いや、これを誘っていると思うのは、無理がありすぎる。
「……本郷さん」
「ん?」
「俺、帰ってきてよかった」
布団の中に落ち着いて、ゆっくり息をつく。
ひとり言のつもりだった。
無意識に、本郷さんに語りかけていて、思わず息が止まる。
「……家は、帰って来るためにあるもんだろ」
「そうなんだけど。ここは本郷さんちだから、俺が帰るのは違……」
「……もうどっちでもいいよな」
俺の家には、一度も来てくれないくせに。
本郷さんの中では、そういう事になっているのか。
確かに、一緒にいるのなら、どっちでもいい、だ。
「おやすみ、本郷さん」
伸びて来た手が、俺の手首を探る。
軽く爪を立てられて、理性が飛びそうになった。
「おお……おやすみ」
ふと、耳をくすぐる声に身体が熱くなった。
「なあ、本郷さん。もう一度言ってくれ」
「へ? おやすみを、か?」
「ああ」
本郷さんの声を最後に聞くのがいい。
パンツの中身は、目を覚ましてから確かめてやろう。
「おやすみ、力石」
かすれた柔らかい響きの声は、俺の身体中にしみこんでくる。
このままゆっくりと眠れそうだ。
ぐっと、本郷さんの手を握りしめて、健全な夜に沈んでいく事にした。