バレンタインデーもすぎたのに、まだ猛烈に寒いです。
なので、暖かくなるような妄想を……
店を出た途端、すごい風の音と強烈な冷え込みに、身体が半分くらいになってしまったような気がした。
「ったく、この寒さはどうした事だよ……」
首をすくめて歩き出す。
今夜の店は、駅まで少し距離がある。
来た時はここまで寒くなかったのに。
陽のある夕方と、どっぷり暮れた夜の違いだ。
「ああ……寒い……」
もしもこのまま、ここで行き倒れるような事になったらどうしよう。
せめて、渋いのれんのある店先で眠りたい。
そんな事を考えていたら、何やら腹が軽くなってきた気がした。
なぜか今夜は、軽く一杯、引っ掛けただけだった。
俺の陣立はどこに行ってしまったのか。
「そこにいるの、本郷さん?」
「お?」
ひときわ、風の音がきつくなったと思った途端、クールな姿が現れた。
「や、やあ。力石じゃないか。風と共にやって来たのかと思ったぜ」
「もう酔ってるのか」
「今夜はちょっとだけだよ」
「ちょっとか……」
両手をポケットに隠した力石が、ニヤリと笑って、俺に近づいてくる。
「力石は?」
「俺、今から。今夜すごく寒いからな……もしも本郷さんに会って、まだ食べてないようなら、鍋にしようと思ってたんだけど……どうするかな」
「鍋!」
この寒さに魅惑の響きだ。
「腹いっぱい?」
「ちょっとだけだから、余裕はあるぞ」
「じゃあ、一緒に食べん?」
「よし来た」
うまい店だったのに、なぜか箸が進まなかったのは、力石の出現を予測していたからなのだろうか。
俺の予知能力。
「……すごいな、俺」
「何が?」
「え? 何って……まあ、なんでもないんだ」
わざとらしく笑って、力石にも笑いを強制する。
こいつはたまに笑う。
その笑顔がやけに若々しくて、日頃忘れている年の差を感じてしまうのだ。
力石は若い。
俺は、オジサンだ。
「店、もう少し先なんだけど、平気?」
「え? モチのロンよ。大丈夫」
不意に、力石の手が伸びて来た。
俺の前に差し出される。
「酔ってるなら、手を貸すけど」
「おお……」
「寒すぎるから、くっつくと暖かいかも」
思ってもみなかった。
この寒さに、ほんの少し、頼る物があればいいとは思ったけれど、それが力石の手には結びつかなかった。
もしかして、触れてもいいんだろうか。
「本郷さん?」
「じゃ、じゃあ……店の前まで……」
「よろこんで」
時間の流れがおかしくなった。
目の前の手に触れるだけなのに、俺の手がなかなか動かない。
全てが止まったかのようだ。
「手……」
「ん?」
「も、もうちょっと待って……」
力石の表情は変わらない。
見た事がないくらい、優しい目だ。
もしかして力石は、すでに酔っ払っていて、俺を女体と勘違いしてるんじゃないだろうか。
だとしたら、俺がその手を握りしめた瞬間、力石は飛び上がって驚くだろう。
俺の手は、どこからどうみてもオジサンの手なのだから。
急に楽しくなってきた。
「よし、力石、俺の手だ!」
ぐっと、力石の手を握りしめた。
「行こうか」
「……あれ?」
顔色ひとつ変わらない。
力石は酔ってなどなかった。
俺の手は、少し冷たい力石の手にしっかりと握られた。
俺も力を返すから、お互い、きつく握りしめ合うようになる。
鍋の店はそこだから、このままでもそう長くは歩かない。
「何か、あった?」
「ん? いや、力石の手は冷たいと思ってな……」
「本郷さんの手も冷たいよ」
顔が近づいてくる。
久しぶりに、力石の顔を間近で見た気がした。
俺を射抜くような視線の強さに、思わず目をそらしてしまった。
「けど、こうやってると暖かいな」
「……たしかに」
力石の声は楽しそうだ。
俺も、楽しくない、わけがない。
「着いた」
「ああ、ここか……」
前は通るけれど、入った事はなかった。
鍋なんて、一人では敷居が高い。
「そうか、力石がいるんだ。これからはちょっとためらってた鍋の店にも行けるな」
「ああ、いいね」
「すき焼きも、また行こうぜ」
力石が笑う。
俺も笑いながら、手に力を込めた。
そろそろ離す頃合いだけれど、俺から離す気は全くなかった。