一巻一話から妄想しました(初心に帰った……訳でもないんですが)
あの出会いがすべての始まり。
一度行った店も、きっとまた行ったりするんでしょうね、二人とも。
日中はまだ暑い。
しかし、夜になると、夏とは違う冷え込み具合に、おでんと熱燗を楽しみたくなった。
そうなればもう、行く先はおやじさんのおでんだ。
暗くなっていく道を、足取りも軽く、屋台を目指して歩いた。
少し急いでしまうのは、あの店が美味いからだ。
一刻も早く食べたくてたまらない。
「……やっぱ、小走りになっちゃうんだよなあ。あの屋台だけは」
オジサンをも走らせる味だと考えると、ため息がもれるほど素晴らしい。
いや、俺はまだそこまでオジサンではない、と思っているけれど。
「食べるぞ……っ……」
俺が今日一番目の客、のはず、だった。
身体中の力が抜けて行く。
「あ、本郷さん」
力石が、笑顔で俺に手を振った。
すでに屋台と一体化して、なんの違和感もない。
「や、やあ……来てたんだ……」
「今夜はおでんと熱燗。もう絶対にこれだと思ってね」
「……俺と、おんなじ……」
「え?」
「いやっ、そうだよな。今夜はおでんだよな。おやじさん、酒!」
はいよ、と、優しい声が響く。
実に心に染み渡る。
力石の隣に腰を下ろして、ちらりとその皿をにらんだ。
驚いた事に、力石の皿には輝くばかりの玉子が乗っていた。
俺の大好きなおでんの玉子だ。
「あ!」
「……どした?」
「いや、いや! なんでもない」
今夜の酒は、祝杯だ。世界中に報告したい。
なんということだろう。
力石がとうとう俺の真似をしやがった。
玉子は以前、俺が注文していた一品だ。
力石のくせに、今夜は俺に、会わないと気を抜いたのだろうか。
「嬉しそうだな、本郷さん」
「そんな事はないさ。あ、おやじさん、俺、バクダ……あ、いや、ちくわぶ」
「はいよ」
一瞬、血の気が引いた。
何気にバクダンを言うところだった。
それこそ、以前力石が食べていた物だ。
あぶない、あぶない。
俺がマネっ子になってどうする。
目の前の勝利が、音を立てて崩れていく。
「……莫大な借金を抱えた、とか?」
「へ? 誰が?」
「ないか。本郷さん、そんなに嬉しそうな顔してるんだもんな」
柔らかく、力石が笑う。
玉子が似合う男だ。
「今、言いかけた言葉の続きを考えてみた」
「……バクダ……ああ、っと……バクダッドって、何県だったかなって」
「県?」
「あ、いや、国」
すでに、力石には酒が入っている。
なかなか酔っ払った姿を見せないヤツだけど、今夜は後からじっくり飲み始める俺の方が有利だ。
たまには、酔わせてやってもいい。
「バクダッドはイラク」
「へえ……力石は物知りだな」
「普通だろ」
「イクラ、食べたくなってくるなあ……」
「本郷さん、単純」
「むむ……」
酒を飲み、ちくわぶにかじりつき、腹の中を落ち着かせる。
そしてゆっくりと、鍋の様子をにらんだ。
ちくわぶから始まった夜は、どう進めていけばいいのだろう。
力石に張り合って、予定外の陣立になってしまった。
「牛スジ……」
「牛スジ……」
思わず、力石と顔を見合す。
今、確実に言葉が重なった。
「同じ事、考えたな」
「お、おお……そのようだな……」
「おやじさんのは、本当に美味しいです」
「ありがとうございます」
俺よりも、先におやじさんを褒める作戦に出た。
笑うおやじさんと、力石との間に何かが芽生えたように思えた。
いかん、いかん。
負けてはいられない。
けれど、このままでは負ける。
重なった牛スジから、俺は大根、力石はちくわに道が分かれた。
「……そうだ、力石よ」
「ん?」
「ちくわって、なんで穴が空いてるんだと思う? 楽しい答えを頼むぞ」
「楽しいって……」
俺の顔をじっと見て、力石はちくわを見つめた。
不思議そうな力石の顔を、初めて見た気がした。
なかなか、悪くない。
魚のすり身を竹に巻きつけて焼く、というのがちくわだけど、そんな答えは当たり前すぎて面白くない。
酔った力石の、酔った答えが聞きたいのだ。
そうだな、と、小さくつぶやいて、力石は考え込んだ。
「本郷さんが、美味しいって食べるため」
「へ? それ、答え?」
「そう」
自信たっぷりに力石が頷く。
むむ、と、唸ってみたけれど、納得がいかない。
「ちくわ……作る人がみんな、俺を知ってるわけないしさ……」
「けど、本郷さん、ちくわ好きだろ?」
「そりゃ……好きだよ」
俺が頷いた途端、力石が笑顔になった。
「だろ? よかった。本郷さんも好きで」
力石が、箸で分けたちくわを、俺の皿によこした。
「本当に美味しいよ。一緒に食べよう」
「お、おお……あっ、力石も、大根、一緒に……あっ!」
力加減を間違えた。
同じように、箸で分けようとした大根は、皿から飛び出して、力石の方に飛んで行った。
「ごめん! 悪かった! 熱くないか? 火傷……」
「大丈夫だよ、生地厚いから」
大根は、力石の股間に落ち着いた。
「けど……いかん、もしも役に立たなくなったら……」
「……役にって……ハハハハ!」
あらぬ所に大根を乗せたまま、力石は笑い出した。
慌てた俺が大根を取り除いて、おしぼりを渡した後にも、その笑いは止まらなかった。
「すまん、力石。クリーニング代払うから」
「いいよ。このくらい。どうにでもなる」
「けど……」
「それより、本郷さんに笑わされたのがさ……」
ようやく落ち着いたと思ったのに、また力石が笑う。
「そんなにおかしかったか?」
「本郷さん、最高」
「今の、大根が?」
「止まらなくなるから、熱燗、もう一杯いこう」
「お、おお」
ロールキャベツと、フクロも一緒に来た。
これらは、早く注文しないとなくなってしまう。
どれも美味いこの店の中でも、人気の一品だ。
「本郷さんと飲むと、酔いがまわるなあ……」
「えっ! おまえ、酔ってるのか?」
「酔うよ、普通に」
力石の顔を覗くだけでは、酔っているのか嘘なのか、全くわからない。
けれど今夜は、力石の言葉を信じてやってもいい。
「帰れる?」
「勿論……本郷さんだって、泥酔しても帰り着くんだろ?」
「そりゃ、俺は大人だし」
再び力石が笑い出した。
わかった。
俺は、笑う力石が嫌いではないのだ。
「なあ、もっと笑っ……てろ、辛っ……!」
言いかけた俺の言葉は、唐突に効いたおでんのカラシが、一瞬で途切れさせた。
「何?」
「いやっ、ほんと、今夜は美味いよ」
「そうだな」
もう二度は言えない。
ぐっと、熱燗を煽って、力石にも追加を勧めた。