「そういえば、昨日、本郷さんの夢を見た」
いつの間に酔っていたのか。
珍しく、力石から話を振ってきた。
今夜は店の前で出くわし、流れのまま、一緒のテーブルについた。
ここで熱燗は外せない。
輝いている刺身も、たまらなく空腹を刺激する。
ただ、力石の選んだ牡蠣だけは、俺が注文するべき一品だった。
笑顔の力石に食べるかと聞かれて、穏やかに遠慮する俺は、この世で一番格好いいと思う。
悔しさは、胸に秘めてこそ、だ。
「どうしたよ、いきなりだな」
「俺も驚いたから」
そう言いながらも、力石の表情はいつも通りだ。
憎いくせに、穏やかな声が通る。
前から密かに思っていたけれど、力石の声は悪くない。
店の人に注文を通す時なんて、料理の名前を羅列しているだけなのに、つい聞き惚れてしまう俺がいる。
美味そうだから、声までよく聞こえるのか。
声がいいから、料理にも興味が湧いてくるのか。
答えはなかなか出ない。
「目が覚めても、今のが夢なのか、現実なのか、分からなくて」
「……勝手に俺の夢を見るんじゃないぞ」
力石が目を丸くした。
そして頷く。
情けない。なんて俺の器は小さいんだろう。
こんな事しか言えないなんて。
けれど、俺の知らない所で、力石の好きにされるのはたまらない。
ジロリと、力石の顔を睨む。
「そうか。それじゃ、本郷さんに出演料」
「へ?」
徳利が傾けられた。
思わず、腕ごとお猪口を差し出していた。
「ありが、とう……」
「いやいや」
トクトクと、小さなお猪口に酒がたまる。
この音だ。
聞き逃してしまいそうな、このささやかな音が嬉しい。
「まあ、頼んでもないのに、勝手に出て来たのは、本郷さんの方だけどね」
「俺か? むむう……覚えてないぞ……」
「……当たり前だろ。俺の夢だよ」
「それもそうか……ん?」
力石が笑って、俺もつられた。
確かに。人の見た夢を、覚えている方がおかしい。
照れ隠しに、ぐっと酒を飲み干した。
いい温度だ。
「美味いな……」
「ちょうど飲み頃だ」
「おお」
そのまま、さりげなく力石の牡蠣に手を伸ばす。
悔しいぐらいに美味くて、倒れるかと思った。
「夢の中で本郷さん、俺におでんをススメてくれた。リアルだろ」
「……夢っぽくないなあ……」
どうせ夢の中の話なら、もっと豪勢で、気前のよすぎる俺だとよかったのに。
見た事もないようなご馳走がいい。
おでんなんて、あまりにも普通すぎる。
いや。
確かにおでんは美味い。
大好きだと叫んでもいい。
特に冬場のおでんは、直接鍋に飛び込んで、両手でかき集めてでも食べたいぐらいだ。
力石の夢は間違っていない。
よく俺の事を分かっている。
けれど。
「……例えばな、おまえの腹が裂けそうなぐらい、ステーキを食べさせる夢とか」
「そんなには食べられない。夢の中でも」
あっさりとした返事に、またその顔を睨んでしまった。
考えてみれば、力石は大食いではない。
バカみたいに飲んでいる姿も見た事がない。
穏やかに、けれど、その店の頂点を極める。
俺よりも先に、完璧に。
その姿のクールさときたら。
いかん。
腹が立ってきた。
「ああ、本郷さんは、鍋かかえてた」
「鍋?」
「鍋いっぱいのおでんを食べてた。嬉しそうにね」
俺の理想通り、なんて羨ましい夢だ。
そんな状況は、夢だとしても、嬉しいに決まっている。
「お猪口、あいてるよ」
「お、おう……」
力石が、また俺に徳利を向ける。
お猪口に注がれる燗酒の匂いで、腹立ちがおさまってくる。
力石の夢から分かる以上に、俺の単純さが浮き彫りになる。
「おでん、か……しばらく食べてないなあ」
「本郷さんと、最初に会ったのがおでんの屋台だったからかな。夢を見たきっかけ」
「ずいぶん前の話だぞ?」
「そうだよな。どうしてそんな夢を見たんだろう」
俺は、今まで見た夢を深く追求した事なんてなかった。
夢は夢。
覚えていても、すぐに忘れる。
「時々本郷さんの夢を見るんだけど、いつも必ず、嬉しそうに何か食べてるか、飲んでるんだ」
「……それ、夢じゃないだろ」
意外なことを言われてしまった。
力石が笑う。
「こうやって、たまに本郷さんと出くわして飲むだろ?」
「ああ」
「帰って眠って、見た夢の中でも会ってる。何だか、ずっと一緒にいるみたいで、不思議な気分になるよ」
言わなかったけれど、俺も力石の夢を見る事がある。
飲みつぶれて酔ったまま寝た時とか、現実と夢の境目が分からない時に多い。
俺の夢の中の力石は、普段と違って、友好的な気がする。
もしかして、同じタイミングで、同じ夢を見ている事があるんだろうか。
離れていても。
「夢か……確かに、不思議だ」
多分、どこにいても力石は、全く変わりなく飲んでいるだろう。
現実でも、夢の中でも。
俺がいても、いなくても。
いなくても。
「あ……」
「どうかした?」
「なんでもない、うん」
今の一瞬、胸がいっぱいになった淋しさは、何だったんだろう。
酒はある。
肴も最高だ。
それなのに、足りないと思うなんて。
「……力石よ、本当に、おでんでいいのか?」
「え?」
「もっと他に、欲しい物があるんじゃないか?」
「欲しい物……」
力石が、軽く首を傾げた。
真剣に考えている。
徳利を奪って、その真剣さを破るように、今度は俺が酒を注いでやる。
「……これ、熱燗だっただろ?」
力石が指差す。
「時間が経って、ゆっくり冷めてきて……それでもまた美味い」
繊細な温度が生み出す変化が、燗酒の楽しみだ。
燗をつけるのが上手い店主の店で飲むと、よくわかる。
「燗酒ってのはな……」
俺の言葉を遮るように、力石が軽く手を挙げた。
視線がそこに流れて、言葉が止まる。
「そうじゃなくて。そのゆっくりした時間を、本郷さんと一緒に楽しめてるなって話」
「……そう、か?」
「貴重な時間だろ」
今度ばかりは、睨まずに力石を見た。
全く感情を表さないと思っていた力石だけど、よく見れば、今夜はずいぶん柔らかい表情をしている。
酒のせいだろうか。
「気がつかなかったよ。力石……おまえって」
「ん……?」
力石がなぜか身構えた。
ぐっと、顔を近づけてみる。
覗き込むように、上目遣いで見上げて見ても、力石は動かない。
「そんなに燗酒が好きなのか……」
「えっ」
「たしかに、よく飲んでるよな」
あちこちの店で、力石はよく熱燗を飲んでいた。
若いくせに、なかなか味のわかる奴だ。
「いや……そうだけど……まあ、好き、だな」
不思議なため息をついて、力石が酒を飲み干した。
俺を見て笑う。
「俺も、力石が美味そうに飲んでるの、嫌いじゃないぜ」
「そうか……」
腹は立つけれど、と言う言葉はこらえた。
今、言わなくてもいい。
そのまま、テーブルに顔がくっついてしまいそうになって、慌てて起き上がる。
力石を、真正面から睨み付けてみる。
「……本郷さん、何、変な顔してるんだ?」
「変なって……失敬な」
「おもしろくていいけど」
温かすぎる目で、力石を見守ることにした。