「よ、本郷さん」
夜というにはまだ早い。
さっき少し降った雨の匂いが残る道で、突然現れた力石に声をかけられた。
いつだって、俺の背後をそっと取る男だ。
「おお、力石か」
「もしかして、この先の店?」
「む……そう……」
自信たっぷりの顔にムカつく。
絶対の絶対に、違うと言ってやりたかった。
力石は、最初から俺の答えが全部分かっているんだという、どこから見ても苛立つ顔をしている。
俺よりも年下のくせに、本当になんでも知っている。
知ったかぶりではなく、どこでどう覚えたのか、きちんとした知識を持っているのだ。
正しくて深い。
それは自信にもつながっているのだろう。
腹を割って話し出すと、力石も言葉は力強くて安心出来る。
それが悔しい。
どう考えても悔しい。
いつでもいい。俺の知っている事で、ギャフンと言わせてやりたい。
「……そうとも、言わないんじゃない、かにゃ……」
噛んだ。
「え?」
「いやっ、この先の店かもしれないけど、違うかもしれない」
力石が俺の顔と、この先の店の明かりを見比べる。
「ふうん……」
考えている時の力石は、全く表情を崩さない。
あの頭の中で、必死で俺に対する返事を考えているはずなのに。
悲しいとか、悔しいとか、感情をあらわにしなさすぎる。
と、その顔を見つめた途端、力石は笑った。
唐突すぎて、心臓が止まりそうになる。
「なっ、何、だよ」
「本郷さんといると、哲学ってこういう所から生まれて、考えていくんだなって思うよ」
「哲学って……」
「勉強になるだろ?」
俺の嫌味も通じない。
どこまでいっても、力石はクールだ。
認めたくないけれど、今日も俺は勝てない。
「けどさ、本郷さん。今日は冷たいおでんって気分だろ? そこに行くんだろ?」
力で押してくる。
まさに、まさにそうだ。
力石は、俺の心を読むんだろうか。
この先にある店の、うまいと評判の一品が、冷たいおでんなのだ。
寒い冬に食べる熱々のおでん。
そこに投入する、熱燗の輝き。
どれだけ唸っても足りない、おでんは冬の幸せだ。
それなのに、俺は知ってしまった。
真夏の、冷たいおでんの存在を。
熱いのも当然うまいけれど、冷たいおでんという不思議がこの世に生まれていたのだ。
俺が知らぬ間に。
そのけしからん味を確かめようと、今夜わざわざやってきたのだ。
ぐっと、握りこぶしを固めた。
力石が背後から忍び寄ってきただけで、俺がその道を譲る必要もないだろう。
「まあ、な。確かにそのつもりで、きた……」
「それじゃあ、一緒に食べようぜ」
俺の心の葛藤に気づいてない力石が、軽く肩をたたいてくる。
こいつの手が、もっと嫌だとよかった。
そうしたら、つねって、叩いて、はたき落としてやるのに。
そんな事、今の力石相手には出来ない。
「そこさ、トマトがうまいんだよ」
「……もしかして、力石って、ここ、初めてじゃないとか?」
「二度目」
「へ、へえ……そう」
同じ立場だと思っていたのに、力石の方が先にいた。
悔しい気持ちがどんどん深まっていく。
「あのな……」
「ん? どうした?」
「たまには、俺に……」
「うん」
「勝、ちを……」
「何って?」
力石が、俺の顔を覗き込んだ。
間近で目があう。
「おっ、おい……そんな近いの……って、目が……」
「本郷さん、今日、どうかした?」
「へ?」
「なんか、さっきからずっと、フラフラしてないか?」
「俺が?」
「熱でもあるんじゃ……?」
不意に伸びてきた手が、俺の頰を撫でた。
思わず身体が固くなる。
この手に、首でも絞められたら死んでしまう。
「力石よ、熱はかる時ってな、額をこう……」
「本郷さんの額は、なかなか触れないから」
力石の指先が、帽子をそっと触る。
ああ、そういう事か。
今夜は特に、深く帽子を被っていたのだ。
「額、いい?」
「お、おお……いいけど。熱ははかったからもういいぞ」
「分かった」
改めて、帽子を取った。
頭が淋しい。
「まっすぐ、立てる?」
「おまえなあ……」
言われて、まっすぐに立ってみた。
力石も、俺に合わせて背筋を伸ばす。
意外と、俺と変わらない。
今あう視線は、そう悪くはなかった。
なんとなく気恥ずかしくなって、そっと帽子をかぶり直す。
「本郷さんって、もっと小柄だと思ってたけど、そうでもないな」
「おまえこそ……」
「もうすでに飲んでるんじゃないよな?」
「まさか、今からが一軒目だよ。今夜の輝ける一品を味わうんだ」
「よかった。ぜひ俺も付き合うよ」
今の言い方。
力石が主導権を握っているのではなく、俺が先んじていたと聞こえた。
冷たいおでんに向かって、力石を従える俺。
なんて格好いいんだろう。
俺の方が有利なら、力石と一緒に食べるのも悪くない。
「おお。楽しみになってきた。腹が鳴る!」
「本郷さん、元気出てきたな。俺と食べるのが嬉しい?」
「お……おまえなあ! トマトだよ、トマト」
思わず、頷きそうになっていた。
違う違う。
大きく頭を振って、考えを吹き飛ばす。
「本郷さん。俺、この間食べた時にな」
「お?」
「ぜひとも、本郷さんと一緒に食べたくなったんだ」
「へえ……」
力石の言葉が、とても優しく聞こえた。